スタートアップが売り手になるM&Aにおいて留意すべきこと/スタートアップが知っておくべきM&A入門(2)
「スタートアップが知っておくべきM&A入門」の第2回となる今回は、スタートアップが対象会社となるM&A(以下「スタートアップM&A」)のうち、主要な経営株主が売り手になる株式譲渡の例を念頭に、主な留意点について解説します。
なお、第1回でも、スタートアップの株主が売り手となるM&Aを念頭にアーンアウト条項や株式対価M&Aを取り上げていますので、ご興味のある方はこちらもご確認ください。
1 「経営株主間契約」の内容次第でM&Aがなくなることも……
スタートアップM&Aの買い手は、
- 一部の株主からのみ株式を譲り受けられればよい
- 発行株式の全てを取得したい
という希望の何れかを有しています。
買い手が発行株式の全てを取得するつもりなら、売り手の全株主が同意しなければなりません。しかし、経営株主の意向はさまざまであり、一部でも売却を拒めば、取引自体の成否が危ぶまれることになりかねません。このような問題は、
設立または参画の際に共同経営者間で締結された「経営株主間契約」のドラッグ・アロング・ライト等の諸権利(詳細は後述します)を実行させたり、スクイーズ・アウト(少数株主の株式を強制的に取得する)の手法を用いたりする
ことで、解決できる場合があります。そのため、経営株主間契約の条項を確認しておく必要があります。具体的には、次のような権利を活用することが考えられます。
- ドラッグ・アロング・ライト
経営株主のうち1名が第三者に保有株式を売却する場合は、他の経営株主の持分も同一条件にて強制的に売却させることができる - タグ・アロング・ライト
経営株主のうち1名が第三者に保有株式を売却する場合は、他の経営株主も同一条件にて売却に参画することができる - コール・オプション
経営株主による役員退任等の一定事由が生じた場合、他の経営株主や対象会社が、当該事由の生じた他の経営株主から株式を有償または無償で譲り受けることができる - プット・オプション
コール・オプションとは逆で、経営株主自身が保有株式を他の経営株主や対象会社に対し、一定価格で買い取らせることができる
もっとも、こうした権利が経営株主間で対等・平等に設けられているとは限りません。例えば、エグジットの決定権限を有する一部の主要な経営株主だけに、こうした権利が付与されていることも多い印象です。
また、そもそも経営株主間契約が締結されていないケースもあります。あるいは、経営株主間契約は締結されていても、ドラッグ・アロング・ライトやコール・オプションの行使条件や、当該権利が行使された場合の譲渡価格の算定方法が不明瞭で、他の経営株主から確実に保有株式を譲り受けられるのか(当該権利を適法に行使できるのか)が不透明なこともあります。創業当初のスタートアップ経営者は、将来的に経営方針の違い等が生じて互いに離散することをあまり想定していないことが多く、経営株主間契約の内容が十分でないケースが珍しくありません。
経営に参画していない旧創業者が離脱後も少数株主として残存し続けることは、M&AのみならずIPOの障害にもなり得ます。全株式を譲り受けることを企図している買い主はなおさらで、M&Aを断念してしまうこともあるでしょう。そのため、経営株主間契約の十分な作り込みはエグジットを考える上で重要です。
なお、スタートアップの中には、経営株主が役員を退任したら高額の退職慰労金を受給できるとの合意をしていることがあります。こうした特殊な退職慰労金は、引当金が貸借対照表に計上されていないことが多いこともあり、買い主としては、想定外の企業価値の毀損を避けるために、そうした退職慰労金が存在しないことをデューディリジェンスで確認したり、表明保証を求めたりするケースもあります。
2 種類株式や潜在株式の処理はM&A実施における重要事項
1)種類株式や潜在株式
スタートアップは、資金調達のため投資家に対し、以下のような種類株式や潜在株式を発行している場合や、投資契約においてこのような種類株式等の発行に関する各種条項を設けている場合があります。
1.取得請求権付株式
取得請求権付株式とは、経営株主による株式売却等の一定事由が生じた場合、当該投資家が、保有株式を所定の価格で対象会社に買い取らせることができる旨を定めた株式です。前述した、プット・オプションとして同様の内容を定めている場合もあります。
取得請求権またはプット・オプションが行使されて自己株式を取得する場合、多額の現金が流出し、譲渡価格の算定に影響を及ぼすおそれがあります。また、必要な取得価格に会社方の「分配可能額」が満たない場合、取得請求権等の存在を理由に想定しているM&Aの実現自体が妨げられることになりかねません。
実際、スタートアップは利益を上げておらず、投資された資金でビジネスをしていることから、分配可能額はほとんどありません。また、経営株主の保有株式譲渡には何らかの形で投資家の承諾が必要になるケースが多く、売り手としても、買い手との交渉開始前に当該種類株式を保有する投資家の意向を確認しておくことも考えられます。
なお、こうした諸権利が行使された場合に備え、
スタートアップM&Aの実務では、株式譲渡契約等において価格調整条項を設けておく
ことが多い印象です。
2.残余財産分配請求権付株式
残余財産分配請求権付株式とは、清算が生じた際、投資家が残余財産の分配を優先的に受けられる旨を定めた株式です。
また、多くの残余財産分配請求権付株式には、いわゆる「みなし清算条項」が設けられています。これは、M&Aが実施された場合に、残余財産分配請求権の規定に従って譲渡価格を分配する旨を定めた条項です。
売り主は、こうしたみなし清算条項の内容に留意しつつ、クロージングが実現した場合の自身への手取りはいくらになるかを考えながら、価格交渉に臨む必要があります。
3.潜在株式
スタートアップの資金調達では、新株予約権や新株予約権付社債等の潜在株式が発行されることがあります。潜在株式も種類株式と同じで、M&A等の一定の事由が生じた場合に、潜在株式を普通株式に即時転換することのできる条項や、対象会社に潜在株式を一定額で買い取らせることができる条項が設けられていることがあります。これらの条項の存否や内容も、M&Aの成否や譲渡価格の算定に影響を与える要因になり得ます。
M&Aによるエグジットを見据えるスタートアップの経営者は、資金調達の段階から、潜在株式の発行が将来のエグジットにどのような影響を与える可能性があるのか留意する必要があるでしょう。
2)役職員に対するストックオプション
スタートアップでは、IPOを見据えて役職員にストックオプションを発行している場合があります。ストックオプションも潜在株式の一種ですが、一定事由が生じた場合には対象会社が当該ストックオプションを取得できる旨の条項が適切に付されていないと、M&A実施後もストックオプションが残存することになってしまいます。
実務上は、買い手または対象会社がストックオプションを譲り受けたり、あるいは、いったんストックオプションを放棄させた後、買収後に残留した役職員に新たなインセンティブ制度を設けたりする例が見られますが、これらの方法を確実に実施する上でも、発行時点における適切なストックオプションの設計が肝要です。
3 コンプライアンス ~人事労務は売却前のセルフチェックが肝心
スタートアップでは、人的資源の不足から株主総会や取締役会等の会社法上必要な議事録類の整備が不十分である場合や、コンプライアンス、とりわけ人事労務面の不備が顕著である場合が少なくありません。
しばしば見られる例としては、次のような事象です。
- 労働時間の管理がずさんである
- 違法・無効な固定残業代手当制度がある
- 労使協定の締結や労働基準監督署への各種届出に不備がある
- 過去に社内でのハラスメント事例がある など
こうした人事労務面の違法や不備はM&A後のリスクとなり、クロージング後に従業員から多額の未払残業代の請求を受けるおそれもあります。こうした理由から、M&Aの交渉でも、買い手が安易に妥協しない領域です。
M&Aによるエグジットを見据えるスタートアップの経営者は、日々の労務管理をはじめとするコンプライアンス面に問題がないかを確認しましょう。不備がある場合は、一般的に考えて、買い手の許容可能な範囲なのかを顧問弁護士等に相談しておくことも考えられます。
4 キーマンをめぐる問題
スタートアップの付加価値は、属人的な要素による部分が多くあります。「キーマン」と呼ばれる役職員がクロージング後も対象会社の業務に継続して従事するか否かは、企業価値の算定に影響を及ぼす重要な事項です。
実務上は、次のような条項を定めておくことがあります。
- 特定の役職員に、クロージング後の一定期間、対象会社で働くことを求めるロックアップ条項
- 一定期間内に特定の役職員が退職した場合、譲渡価格の調整を行う条項
M&A交渉が円滑に進むよう、事前にキーマンとなる役職員に継続して働く意向があるか否かを確認しておくことも考えられます。
5 PMIの重要性
M&Aでは、クロージング後の経営統合プロセスである「PMI =Post Merger Integration(ポスト・マージャー・インテグレーション)」がとても重要です。
主なPMIの内容には、ガバナンス制度や人事制度の整備、広義のスタンド・アローン・イシュー(M&Aにおいて、対象会社が親会社・企業グループから離脱した場合に受ける事業運営上等の問題。次回の第3回で詳しく解説する予定です)への対応等があります。スタートアップは人的資源による部分が多いので、優秀な役職員が離職しないよう、魅力的なインセンティブプランや就業環境の整備が重要になるといえるでしょう。
PMIの方針について売り手・買い手間で話し合い、必要に応じて当該方針をクロージング前に一部のキーマンに伝え、理解や了承を得ておくということも考えられます。
なお、中小企業庁は「中小PMI指針」の策定を進めており、2022年中に公表される予定です(2022年2月1日時点)。
最後に、スタートアップM&Aに関連するトピックを一つ紹介します。2021年8月から、中小企業庁により、FA(ファイナンシャル・アドバイザー)やM&A仲介業者等の「M&A支援機関」の登録制度が開始されました。登録を受けたM&A支援機関を利用する場合、必要な手数料の一部が補助されるようになったため、金銭的な負担が軽減されます。これにより、今後、スタートアップを含む中小企業におけるM&Aが活発化することが期待されています。
あわせて読む
スタートアップが知っておくべきM&A入門
- 第1回 M&Aの現状と企業価値算定ギャップの解消につながる手法
- 第2回 スタートアップが売り手になるM&Aにおいて留意すべきこと
- 第3回 カーブアウトM&Aを行う場合に留意すべきこと
以上
※上記内容は、本文中に特別な断りがない限り、2022年2月15日時点のものであり、将来変更される可能性があります。
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執筆: 弁護士 市毛由美子
平成元年4月弁護士登録(第二東京弁護士会)、日本アイ・ビー・エム株式会社法務部に勤務後、都内法律事務所を経てのぞみ総合法律事務所パートナー。弁護士としては、コンピュータを巡る各種契約実務、知的財産権、会社法、コーポレート・ガバナンス等の分野を取り扱う他、最近では、上場会社社外役員として法律家の視点で経営判断に関わっている。
平成21年度 第二東京弁護士会 副会長
平成22年9月~平成24年8月 日本弁護士連合会 事務次長
平成26年5月~平成31年5月 イオンモール株式会社 社外監査役
平成28年12月~現在 株式会社スシローグローバルホールディングス 社外取締役・監査等委員
平成30年6月 伊藤ハム米久ホールディングス株式会社 社外取締役
著書等(いずれも共著) 『Business Law Journal』(レクシスネクシス、2010年1月号「ライセンス契約」) 『「社外取締役ガイドライン」の解説』日本弁護士連合会司法制度調査会 社外取締役ガイドライン検討チーム編(商事法務、2013年9月) 『Q&A プライベートブランドの法律実務』(民事法研究会、2014年8月) 『弁護士から見た情報処理』(情報処理学会、2014年3月号「情報処理」)
執筆: 弁護士 川西風人
京都大学法学部卒業。2007年弁護士登録(東京弁護士会)・NY州弁護士。M&A、コーポレート・ガバナンス、ベンチャー法務等を中心に取り扱うとともに、米国ロースクールへの留学、シンガポールの法律事務所での駐在、国内大手総合商社法務部への出向等の経験を経て、海外法務も得意としている。
執筆: 弁護士 吉田元樹
早稲田大学法学部卒業、東京大学法科大学院修了。2013年弁護士登録(第二東京弁護士会)。国内大手証券会社法務部への出向等を経て、現在は、M&A、会社関係争訟、コーポレート・ガバナンス、企業不祥事対応等を中心とした業務を行う。
執筆: 弁護士 劉セビョク
早稲田大学法学部卒業、早稲田大学法科大学院修了。2013年弁護士登録(第一東京弁護士会)。早稲田大学法科大学院アカデミック・アドバイザー(現任)。M&A、株主総会、コーポレート・ガバナンス、国際法務、エンターテインメント・スポーツ等を中心とした業務を行う。